BLM、すなわち「ブラック・ライブズ・マター運動」とは、2012年のある痛ましい事件がきっかけとなっているが、2020年の「ジョージ・フロイド事件」によって、更なる怒りのデモを巻き起こした。
全米を動かしたその運動は、世界中に広がった。
あれから一年余り。
あの時は、日本でも珍しく人種差別問題が取り上げられた。
「日本に差別はない」と言う人もいるが、そんなことはない。
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私は「差別」されたことがない(と思う)。
イギリスに住み始めてからというもの、「夫が日本で経験してきたような差別を、今度は私が経験することになるかもしれない」、「少しくらいなら、実際に体験するのも知見が深まるだろうし前向きに捉えよう」と構えているのだが、有難いことに、まだ経験できていない。
ただ、「イギリスにもあるよ」とは聞くこともあるので、これからあるのかもしれない。
ただそれでも、日本とイギリスの状況というか、社会通念のようなものには、かなり違いがあるのではないかと感じている。
そんな私も、夫と出会う2013年頃までは、そこまで人種差別問題に敏感だったわけではない。
自分が日本において圧倒的マジョリティーかつ生まれながらに特権をもつ「日本人」であるため、マイノリティーである「外国人」と生活するようになるまで、気が付かなかったのだろう。
だから、実体験をしたり、した人が周りにいたりという環境になく「ピンと来ない」という人達を、片っ端から「差別主義者だ」などと責めるつもりはない。私も、同じ立場だったことがあるのだ。
ただ、二次的な当事者となった今、できるだけ多くの人に、まずは「知る」、そして「考える」きっかけを与えたいと思うようになった。
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少しだけ私の背景について話せば、幼い頃から英会話教室に通わせてもらったり(身に付かなかったが)、海外旅行が好きだったり(そして現地で友達ができたり)、もちろん海外ドラマも大好きだったり、というようなことも関係してかせずか、日本人に割とよく見られる「外国や他言語(主に英語)への極端な苦手意識や抵抗感」はなく育った。
20代の頃はクラブで頻繁にDJをしていたのだが、そういった場所には外国人もたくさんいた。
いま、説明のために「外国人」と書いているが、本当はちょっと違和感がある。
そういった音楽コミュニティーの中では、人種はもとより、年齢や性別、職業も様々で、そんなこと誰も気にしていない。
世の中には色んな種類のパーティーやイベント、クラブがあると思うが、私と夫の出会いの場でもあるそこは、もしかしたら皆さんが想像しているものとは違うかもしれない。いわゆる「チャラ箱」と描写されるような、とにかく派手な音楽とナンパが行き交うギラギラしたものではなく、純粋に音楽と酒と人間が好きな輩(愛を込めて)が集まる場所だった。
ダンスミュージックとカルチャーをまっすぐに愛する彼らは輝いていて、今でも思い出すと温かい気持ちになる。
私は音楽と同じくらい、そんな一般社会から少し外れたところに小さく(物理的には小さくないこともあるが)、だけど確かに存在している、その空間が大好きだった。
成人してからも、そういうある意味理想郷のような場所で成長させてもらえたことは幸いであったが、それは日本において、決して当たり前の環境ではなかったのである。
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夫と付き合うようになってからは、パーティーでわざわざ話すことはないような、日々のリアルな体験について聞くことが増えた。
差別の度合いを他者の口から言及することは本来憚られるが、それでも敢えて言うなら、小さいことから大きいことまであらゆる内容の、主に言葉による差別が、ほとんど12年間毎日繰り返されていた。12年というのは、夫が日本に住んでいた期間である。
(日本での外国人差別は、意図的・意図的でないに関わらず、言葉による陰湿なものが大半を占める。当事者にとって、日常的なそれは精神的なダメージを伴うが、それでもそれは、特にアメリカなどで社会問題となっている暴力的なものと比べれば、実際、まだマシだと言えるだろう。日本でも、外国人労働者や実習生に対する差別、難民の扱いなど、他にも制度的な差別が存在するが、今回掘り下げることはしない。)
内容はまあ色んなものがあるのだが、「にほんご、わかる?」「お箸使えるの?」のような定番から、「うわっ、外国人無理、怖い(面と向かって)」「ガイジンは出ていけ(ラーメン店にて他の客から)」のようなあからさまなものまで様々だ。
夫が流暢で訛りのない日本語で店員に話しかけても、「英語がわかりません」という素振りをしたり、多くの店員は夫の隣にいる私に向かって説明を始める。(この辺りのものは「差別」と言うよりも別の特性に起因していると思うが、されて嫌な気持ちがすることには変わりない。)
しょうもない小さなことに聞こえるものでも、外出先や職場などで毎日繰り返されれば悪夢である。
2014年か2015年頃から、私も黙っていてはいけないと思い始め、時々SNSでもその思いを発信するようになった。
その頃はまだ人種差別について声を上げるのは今よりずっと珍しく、奇異な目でも見られていたと思うが、気にしている場合ではなかった。
よく言われる言葉に、「日本だけじゃないよ」というものがある。
その言葉のなんと的外れなことか。
ー「日本だけじゃないよ」については今度また話そう、今は「日本の話」をしているので、とりあえずそこから始めない?
ーーそう思ったものだ。Twitterなど見ていると、今でもこの不毛なやりとりは頻繁に繰り広げられているのが虚しい。
彼らは、現実を見たがらない。日本を貶すなと、被害妄想に走るのだ。
何事も、批判無くして成長することはない。批判は、否定ではない。批判の多くは、否定の反対、その対象への愛と希望からくるものだというのに。(誹謗中傷との線引きは厳格にする必要がある)
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さて、なぜ今回人種差別について取り上げたかというと、昨年のBLMから一年が経ったということもあるが、実は先日、イギリスの友人たちと、あの、松本人志企画『ドキュメンタル』を観たことにある。
とてつもなく下品なシーンが多いので、一緒に観る人にはご注意を
「うわー、やっちゃったね」と思われているかもしれない。
実は私、『ドキュメンタル』に限らず、ダウンタウンが関わるお笑いは子どもの頃からどうも苦手と感じることがあり、避ける傾向にあった。
だけど面白いと聞くので、なんとなく最近シーズン2か3を観てみたところ、確かに笑える場面もあるのだ。
『ドキュメンタル』は、「笑ってしまう」という、人間に本来備わっている機能、逆らえない機能を利用し、精神的に丸裸にしていくような、本能的な笑いを追求しているようにも見え、その点、面白い試みだなとも思った。
しかしやはり最後まで継続して心穏やかに観ることはできない。
その日お邪魔した友人宅の主はイギリス人だが、日本文化に詳しい。
『ガキ使』が好きだと言っていたこともあったので、『ドキュメンタル』、好きだと思うよ、という話になったのである。
そして、観ることになった。
私たち夫婦以外にとっては初めてだったため、シーズン1から観ることになった。(私も1を観ていなかったが)
イギリス版プライムビデオで観たが、英語字幕の質は高く、問題なかった。
早速本題に入るが、シーズン1の出演者にはアントニー(マテンロウ)という芸人がおり、彼はアフリカ系アメリカ人の父と日本人の母を持つ、いわゆる「ハーフ(とここでは表記することにする)」だ。その容姿から黒人の血を引いていると分かるが、生まれも育ちも日本だという。
さあ、舞台は日本だ。日本のお笑い番組だ。もう、ひしひしと嫌な予感がするではないか。
「ハーフ」の芸人が出ているというだけで不安を感じている自分にさえ嫌気が差すので、とりあえずは考えないことにした。
しかしその時が来るまで、そんなに時間はかからなかった。
ある芸人が、彼に対して完全なる人種差別発言をしたのだ。
(ちなみに、ここでは「黒人差別」と「日本人なのに日本人として扱わない差別」が同時に行われており、二重につらい)
興味深かったのは、英語字幕が、その部分を完全に無視したことである。その発言だけが、字幕に出ていなかった。
そりゃ、そうだよね、と。
もし翻訳されていたら、とっくに消されていて、この日イギリスで観ることはなかったかもしれない。
注文してあったフィッシュ&チップスが届き、早々に視聴中断となったが、友人たちは楽しめたようだ。
その先は観ていないが、アントニー自身が「黒人」をネタとして使う場面もあるらしい。
こういうことを書くと「本人がいいならいいじゃん」という意見が出てくるのが常だが、そういう問題ではないのだ。
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日本のお笑いでは、人種差別に限らず、ルッキズム(外見にもとづく差別)が根強い。半分くらいはルッキズムをベースとした「笑い」になっているのではないかと感じることもあるほどだ。
私は、「個人的な身体の特徴」について他人を貶して笑いを取ろうとするものや、自虐ネタとするものであっても、ほとんど笑えないどころか、むしろ気持ち悪さや恥ずかしさ(芸人が面白くないことを言っていることによる)を感じてしまう。「面白いことが言えないからルッキズムに逃げているのではないか」と思うことも、しばしばある。
「ここまでは差別じゃない、ここからは差別、という線引きは難しい」という声があるかもしれないが、それは日本にそもそもの「基準」や「リテラシー」、「前提」が欠けているからだと思う。
世の中には、場合によって身体的な笑いを誘うことが許されることがあるが、それは一般的な通念、差別に関するリテラシーなどが、当たり前のように「前提」となっている社会において、それを逆手にとって利用し、視聴者にある種の「気まずさ」のようなものを故意に覚えさせることによる笑い、という高度なテクニックを要する。
日本ではその「前提」が出来上がっているとは言い難いので、その場合、それはただの差別となってしまう危険がある。
ルッキズムとしての笑いは、子どもたちに悪影響だとも思う。
“「普通」じゃない” ことをやけに区別・差別化する日本のテレビ文化は、いじめの助長とも十分になり得るだろう。
子どもに「いじめはダメだよ」と言いながら、自分は「ハゲ」「デブ」「ブス」etc. 、または肌の色や容姿からくる偏見を通して笑っている。そこに矛盾は感じないだろうか。
文化の違いとか、日本と海外のお笑いは違うとか、そういう話はまた今度にしたいと思っているのだが、そういったことを考慮したうえでもなお、引っかかる部分は大いに残る。
もし、テレビを見ていて違和感を感じたとしても、「有名な人が言ってるし皆んな笑ってるから、いいってことだよね」となった経験があるかもしれない。私もそうやって、「気にする自分がおかしいんだ」と不快な気持ちを抑え込んできた期間が長かったので、よく分かる。
「皆んなと同じように笑いたい」「笑う方が正しいはずだ」と、どうにかして笑えるように、笑って「私は普通だ」と思えるように、正当化できる箇所を無理矢理探し出しては、一時的な安心感を集めたりもしていた。
そしてそれこそが、不特定多数の人が目にする場所(テレビなど)で、差別を正当化してはいけない理由につながると思うのだ。
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『ドキュメンタル』の話に戻るが、流石に2021年だったら制作の段階でアウトになっているだろうな(そうであってほしい)と思い、シーズン1の配信時期(日本)を調べてみた。
2016年。なるほど、日本人の多くがまだ「人種差別って何?」だった、あの時代か。ついこの間まで、日本はびっくりするようなPC後進国だったのである(今も根本的には何も変わっていないのかもしれないが)。
PC(Political correctness): ポリティカル・コレクトネス
政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語を用いること
職業・性別・文化・人種・民族・宗教・年齢などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現、およびその概念
差別とかもうわかんないよ、難しい、ああ、あの頃は何も考えなくてよくて、ただバカやって笑って、平和だったなー
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平和だったのは、あなただけである。
もちろん、あなただけではない。だが「マジョリティー」に属することができた人だけである。
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ここ数年で、日本が少しずつ変わってきているのを感じていた。今も、感じることはある。
人種差別だけでなく、他のあらゆる差別やルッキズムに関しても、色々と議論されるようになってきた。
しかし同時に、なにかこう「巻き戻そう」というような、あるいは社会の平等を目指す人たちが少しずつ地道に積み重ねてきたものを、まるで無かったことにしてしまおうとするような、そんな空気をふっと感じることがあり、ちょっとした緊張を感じている。
確かに昨今は、「ダイバーシティー」を意識するあまり、色々とこじれているように感じることもないとは言えない。しかし過渡期である以上、多少の違和感が生じることは仕方がないとも思える。
だからこそ、本質から目を逸らしてはいけない。
2021年もあっという間に半分が過ぎようとしている。
これからの日本には、どんな展開が待っているのだろう。
それを作っていくのは私たちだ。